宮下創平のホームページ |
誕生 農家の三男坊の生家 昭和2年11月10日上伊那郡伊那里村(現長谷村)生まれ。厳父九衝氏・慈母おりゑさんの五男二女の三男として誕生。ひなびた寒村の農家の風景は当時としてはー般的な建物で、水車小屋は自宅の前にあったもの。 父の信奉する石丸悟平教授の「平」の字と、教授が主宰する雑誌「人生創造」の「創」の字を採って宮下創平と命名された。 |
家族 汗だくの野良仕事・山仕事 「芝刈り・縄ない・わらじを作り、親の手助け弟を世話し兄弟姉妹仲よく孝行尽くす、手本は二宮金次郎」というのが当時の農村の模範生であり教育でもあった。 早朝からの山仕事に続いて、野良仕事の合間に一休み。父親を挟んで武志兄と創平サ。 |
伊那中 向学心に燃えて伊那中通学 昭和15年4月星雲の志を抱いて伊那中(現伊那北高校)へ入学。子沢山の農家の三男が進学することは難事であったが、恩師の山口先生の熱心な説得により父の承諾を得た。三度の飯を二度に減らしてでも創平に勉強させたいとの両親家族の期待を担っての進学であった。 伊那里村から伊那町まで悪路の自転車通学は往復40キロ、雪に閉ざされる冬期は伊那町で下宿生活。 |
幼年学校 困窮・退学・国費で勉学 昭和大恐慌後の不況と日中戦争から大東亜戦争へと軍靴の響きが高まる中、宮下家の家計も苦しくなり、これ以上創平少年に学業を継続させることは因難となった。 向学心に燃える創平少年に残された道は、超難関とされた陸軍幼年学校での国費による勉学だけであった。そして、徹夜の猛勉強の結果、名古屋陸軍幼年学校へ合格。二年間の伊那中生活に別れをつげたが、伊那中からは初めての陸幼合格であった。 (写真の右のスケッチは創平少年の描いた陸幼の建物) |
農民運動 傷心を癒し復興への待機 昭和20年8月の終戦により、予科士官学校を中退。伊那里村市野瀬へ帰郷。無理がたたって衰弱した身体の回復と敗戦ショックを癒す雌伏の時代。戦後の混乱期には民主主義運動・青年運動が各地で沸き起こった。写真は何の秋祭りに脚本・演出宮下創平で上演した『百姓の一生』の青年一座の記録。この後、旧制松本高等学校へ入学し東京大学進学をめざす。 |
東大卒 青雲の志を抱いての巣立ち 『生計か苦しくとも、創平には勉強させてやりたい。』という両親・兄弟姉妹の応援と創平青年の努力が実を結び昭和24年東大法学部へ合格。経済的にゆとりがあっての進学ではないため、学生時代も質素勤勉とアルバイトを含めて苦学の連続。昭和28年3月、蛍雪の功なり晴れて東大卒業。同年4月大蔵省入省により社会への第一歩を踏み出した。 |
母の看病 激務をさいて母の看病も 小学校時代の恩師山ロ先生回顧録に創平少年が病弱の母の手助けや弟妹のオムツ洗いをしたことが書かれている。 大蔵省主計局勤務の激務の合間をぬって、母の見舞や看病に帰省したり、お医者さんまで母をおぶっての通院など、なかなかの孝行息子でもあった。『母の介護で苦労掛けた兄貴夫婦には何時もありがたいと思って・・・』と言葉少なに創平サは語る。 |
結婚 いよいよ二人の人生航路 昭和31年4月27日、大蔵省時代に知り合った敦子夫人と結婚。当時大学卒の民間の初任給は1万円程度。役人の俸給はそれ以下であったから、結構慎ましく細やかな新婚生活であった。現在のハネムーンは海外旅行が当然のようだが、多忙な勤務の中、関西へ2泊3日の日程が精一杯の思い出旅行。今から思えばそれでも古き良き時代だった?その後1男1女に恵まれ、長男のー郎氏は現在父親の政策担当秘書として修業中。 |
大蔵省 国家の中枢で国政を学ぶ 昭和43年佐藤内閣当時には保利茂官房長官の秘書官として仕え、政治の中枢を良く見聞きし、将来の政治の師である保利長官から『百術は一誠にしかず』の心を学ぶと共に多くの薫陶を受けた。大学紛争(学園闘争)たけなわの時代でもあり、大学紛争法案の立法化によりさしもの大騒動も鎮静化に向かった。未だに全共闘世代には古くて新しい歴史となっている。 |
選挙 初陣をトップ当選で飾る 昭和54年10月7日、小川・向山・中島・串原・原・林・柿木氏等の古豪ベテランに新人宮下創平を加え8人の大激戦を短期決戦で勝ち抜き、トップで初当選を飾る。長谷村から挙げられた細いのろしがアッと言う間に三区へ燃え広がり、百姓一揆と町民一揆が合体して吉川夫人の応援も併せ奇跡の当選と評された。 得票は60,093票。二月に大蔵大臣官房審議官を退官して半年後の快挙であった。以後連続8回当選をかさねる。 |
陳情 有言実行と即断即決 財政の宮下・予算の創平は広く定評のあるところ。政治家としての実力とMOF(大蔵省)時代の実績を知る関係者の陳情はひっきりなし。陳情案件の処理は即断即決を旨とし、難しい案件でも諦めず出来るものは出来る、駄目なものはダメと対応もしっかりしているとの評判。権兵衛・清内路の両トンネルの促進、戸草ダム、三遠南信自動車道等の予算措置に全面的に取り組んでいるほか、リニア中央新幹線の開発促進の自民党責任者として精力的に活躍している。 |
初入閣 はじめてのPKO 平成3年11月、国務大臣防衛庁長官に就任。国際平和協力の一環としてPKO法案を成立させ、人道的な国際貢献への道しるべをつける。カンボディアヘ派遣された自衛隊員の慰問と安全確認に率先して現地入りした。 日本から初めて参加した国連平和維持活動であり、施設大隊員・停戦監視要員の活動が和平の基礎を作り、人的・物的貢献に尽くした。平和実現に流した隊員の汗と志は永くカンボディア国民の心に残るでしょう。 |
再入閣 水俣病の政治決着へ道筋 平成6年8月、国務大臣環境庁長官に就任。国際会議等への出席を通じて地球環境問題の解決に取り組む。 国内では公害問題の原点とも言われる水俣病問題の政治決着への道筋をつけた。(写真は村山総理へ報告する大臣と菅直人調整会議座長) 六回生議員で二度も閣僚就任を経験できましたのは、偏に地元の皆さんのおかげです。今後も郷土・日本のために懸命に働きますと決意表明をしている。 |
三たび入閣 社会保障の改革に取り組む 平成10年7月、厚生大臣に就任。(写真は、小泉純一郎前大臣から事務引継ぎを受け、握手する宮下新大臣) 平成12年4月からスタートした介護保険の円滑なスタートのための様々な準備を行うとともに、5年に一度の年金制度の改革にあたり、給付と負担のバランスをとった制度とする為の改革法案を提出、さらに医療制度や福祉制度の改革に取り組むなど、国民生活に密接に関わる厚生行政の様々な分野において強力な指導力を発揮した。 |
未来へ 心豊かに暮らせる社会を 21世紀には、日本はこれまでに経験をしたことのない少子高齢化社会を迎えます。いまこそ、「いきいき健康、はつらつ長寿」をモットーに様々な改革を行い、お年寄りも障害をもつ皆さんも、皆が心豊かに安心して暮らせる社会をつくりあげることが必要です。さらに、女性が共に社会に参画するための環境整備を行うなど、創平サはこれからも豊かな国づくり、故郷づくりのために頑張ります。 |
初心 愛と誠の初心忘れず 日本の大変動期を迎え、宮下創平は愛と誠と実行力の初心を忘れず、郷土の皆様と日本の未来のため懸命に働きます。子供や孫や、その次の代へ生き生きした日本と豊かな自然環境や、安心と平和を引き継がなければなりません。これからが男子の本懐・正念場です。 |